直截の時間(募集中)

気ままに書きます。勉学(課題の超過)によって停滞する可能性あり、タイトルは募集中だし良いのがあれば変える。

black midiは個人のバラバラ死体である

black midiを見た。

60分間一切曲間もMCも挟まずに、既成曲をスクラップし裁断して再び構築する様は、ある種のカルトの祭典のようであり、ドロドロと原始的な塊が襲いかかる場の空気にあてられ、言葉を失い立ち尽くしていた人間は少なくなかろう。

乱れ打たれるドラムの打音やギターをかきむしり吐き出されるノイズの暴力的うねりの中でも、ミニマムミュージック〜80年代以降のKing Crimsonが継承してきた(もっとも、Crimsonも非常に暴力的な要素を持ってきたバンドである)規律的なフレージングが常に内在する構造は、かつて性的な要素を孕んでいた盆踊りのように、理性を取っ払って本能を露呈させる手法であった音楽と、ピタゴラス以来数学などの学問の一環として、神の摂理を表現する非常に理知的な営為であった音楽との対立であった。

特に、フォークミュージックなどアメリカーナ的テイストを感じる穏やかなアルペジオで一度静寂が訪れた後に、ヘヴィーで複雑なリズムのユニゾンからMagmaのようなチャントが入り混じるクライマックスへ流れる展開は、暴力と理性が拮抗する彼らの音楽の特徴を一番端的に捉えられる瞬間と言えよう。

そこに自分は音楽の持つ本来的な能力の降臨と、その奥に様々な「完成されたもの」がバラバラに切断され、瓦礫のように折り重なっている光景を見た。

 

その「切断されたもの」の話を展開するために、ロックという音楽における個人の位置付けに少しばかり触れてみよう(もちろんこれは単純化しすぎているため、穴はいくらでもあるので、軽く読み流していただけたらありがたい)。

大衆のために大衆によって生み出され消費されるポピュラーミュージックと、持たざる者の嘆きとして一個人が同志たちの声を代弁して語るブルースミュージックなどのブラックミュージックをルーツに持つロックは、当初こそボーイミーツガールの非常に普遍的かつ没個性的なメッセージの音楽であったが、後に「個」の比率がでかくなり、フロントマンが持つ哲学やプレイヤーの音の癖を嗅ぎつけることがリスナーの使命になっていく。

やがて時代が下るにつれて、その「個」の単位はミュージシャンからバンドに徐々に移行し、新奇な音を作ることよりも過去の先人が遺した膨大な引き出しを組み合わせることにその営為は費やされるようになる。また、「一体感」もライブという空間では求められていくようになり、大観衆を前にバンドが手拍子を煽るなど、ボーイミーツガールよりも直接的に個人と個人の融合は果たされていくようになる。

そしてその時代で求められる「個」の力量とは、組み合わせの妙であり、バンドの中でミュージシャンが為すべきことは、自分の癖を前面に出すことではなく、そのバンドの「組み合わせ」を再現するために適切な役割を果たすこととなった。そしてリスナーはバンドと元ネタのパーツの共通認識を得た上で、そのリサイクル方法に評点をつける。

とはいえ、リサイクルにおいて、かつて主体であった一個人は裁断される対象になるのだが、ある程度は原型を保つことが求められ、そこで彼らは再び復活し、新世代のミュージシャンに憑依して個人が主体である音楽性を鳴らそうと試みる。

個の独立と融合がせめぎ合いする歴史がロックの歴史なのである。

 

Black Midiにおけるリサイクルでは、その原型がかつてないレベルで砕かれ、System of a Dawnのように1つ1つ塊で元ネタを引用するのではなく、同じ瞬間にいくつもの過去の引用が行われる。その目まぐるしさはリスナーのライブラリーを超越し、共通認識はもはや放棄されていると言っても良い。まさしく、誰のものなのか分からない体の一部分が山積みにされた死体現場であり、そこに「暴力」というガソリンを注ぐことで着火させ、引用元が分からなかろうと、その始原的なエネルギーを引き出し、もはや理解も出来ないリスナーに浴びせかける。

 

個の独立と融合でいえば、Black Midiはその両極端を同時に行っているのである。引用元では70年代の「個」が全盛期だった音楽を惜しげも無く使っている一方で、そのままカリスマを模倣するイタコとして振る舞うのではなく、その「個」を細かくミキサーにかけ、あくまでもバンド全体のために用いる。そして理性的な個人と暴力によって溶け出す個人とが同時に存在し、その異常な空気感に我々は嘯く。「これはロックの未来だ」と。

だが、どちらかというとこれは「音楽の行き着く先」であると自分は言いたい。個が個として存在しえる時代であると同時に、個が喪失され、衆愚な振る舞いが世を覆う時代として、この音が生まれるのはある種必然である。

 

入場曲がGreen Dayというもっとも扇動的なロックバンドであったのはある種の示唆でもあるかもしれない。