読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

直截の時間(募集中)

気ままに書きます。勉学(課題の超過)によって停滞する可能性あり、タイトルは募集中だし良いのがあれば変える。

エクス・マキナ(Ex Machina)(2015 英)

スタイリッシュ、ミニマム、認識論、サスペンス...

 
"どこをとっても絵になる"というSF映画らしくないSF映画が登場した。
レックガーランドの初監督作品の『エクス・マキナ』である。
 
 

f:id:bwe344:20160620023737j:plain

 

 

まるで『2001年宇宙の旅』のような、最小限の装飾しかない現代建築の研究所を舞台にして繰り広げられる今作は、カメラワークを含め、非常にスタイリッシュであり、B級カルトSF映画やレーザーが飛び交うハリウッドとは一線を画しながらも、決して人を選ぶような代物ではない、「新しいSF」として監督のデビューを飾った。(案外あるっぽいけど。『ガタカ』とか)
 
だが、それが今作の一番の特徴とは言えない。
先に言ってしまうと、この作品の最大の特徴は「起こるかもしれない未来」ではなく「おそらく起こりうる未来」を正面から捉え、ストーリーと並行して観客へ突きつけたことだ。
 
AIが自ら思考し、人類を凌駕する瞬間。
それは間違いなく、加速度的に迫っているが、その原因となる人間はその事態に対してただ戸惑うだけで制度的にも精神的にも十分な対策を取っていない。「もし人間が作ったものが人間のように思考したとしたら、我々とどう違うのか」そのような問いが誤魔化しなく撮られているのが『エクス・マキナ』なのである。
 
詳細に移ろう。(見る気マックスで一ミリでもネタバレごめん侍とはここにて御免!!)
 
まず、SFとしては美しすぎるビジュアルだが、カメラワークに関して述べると、ミニマムで計算され尽くした現代建築のカットorその上に人の手の入った中庭的自然を同時に映すカット、あるいは全く人の介入がない自然を背景としたカットが印象的に用いられている。自然対人間という対立構造は何世紀にも渡って繰り広げられてきた構図であるが、ここでは人間が手を加えた自然と無機物によって作られた人工物の接近か、完全なる自然しか撮られていない。AIが人間並みの思考をするようになるということは、すなわち「自然がその通史の中で人と知性を生み出した」という過程が再び全く”人為的”に繰り返されるということである。今までは自然は人間の敵、人間は自然の敵という単純な対立構造が成立できていたのだが、AIはその二項対立を超越し、人間が自然の働きを成し遂げ、大自然の特権を奪うことをもたらすのである。その意味では、このカメラワークは非常に意味ありげで、我々の不安を増長する。どこか美しいのに、落ち着かない。これはシナリオにも言える。
 
 

f:id:bwe344:20160620111739j:plain

 
 
そして肝心のシナリオ、設定であるが、難解さを取り入れて客を苦しめる、90年代のアニメのような代物とは違う、しっかりエンタメしたものであったことを最初に明言しよう(笑)
シナリオや世界観もヴィジュアルや音楽と同様に「ミニマム」をテーマに徹底しており、与えられる情報や登場人物も最低限で、渦巻く不信(社長がこれまた怪しいんだ)や不安は、説明が増えて収まるどころか話を追うにつれて更に膨れ上がっていく。そして沸点寸前まで伏線と疑念が張り巡らされた時、話は急転換を迎え、収束していく。この辺りはサスペンスとして、まあ及第点なのではないかと思う。どうにもこの辺りの僕の評価の歯切れが悪いのは「やっぱりね〜」と「なんでそうなるのを防げなかった??」という箇所がないわけではない、というか一番の山場がそんな内容だったからで、もしサスペンスだけの一本勝負だったら稚拙な出来だったかもしれないな、という減点ポイントはあるにはあった。とは言っても演出は巧みだし、それなりに楽しめちゃうかもしれない。地味に笑いあり(あまりのシュールさに凍りついた笑みしか浮かべられないかもしれませんがね)
 
んでここからはAIのお話だけど、ここに出てくるAIの名前は「エヴァ」。そう、あの創世記バカヤロー特撮撮ってないでとっとと終幕させろ庵野なんちゃらゲリオンでおなじみの「エヴァ」である。つまりはイブのことであり、人間=アダムから派生する新たな知的存在を作るとき、我々は神になるのである。AI開発に熱中している社長の口から唐突にこの壮大な論理展開が繰り広げられ、日本人の感覚だと戸惑ってしまうかもしれない。これがどういうことかというと、クローン人間論争でも共通したテーマであった「人間が神と並ぶというタブー」がAIの完成時に犯されるのである。
つまりは、神にしかできなかった「繁殖以外での理性的個体の創造」が、現在よりはるかに進歩し人間と同等の思考をするAIが完成されたとき、人間の手に譲渡されてしまうのである。今までは胡散臭い宗教関係の人間の専売特許であった「俺が神だ」という発言が、多くが認める根拠の下、放たれてしまうのだ。今までのタイムマシンや不老長寿のような絵空事と違って、現在進行形のテクノロジーの先にある未来なだけに、マッドサイエンティストの妄言として笑うところではなくなっている。ある意味、この映画の持つ力にはホラー的な要素もあるのかもしれない。
 
ところで、コギト・エルゴ・スム=「我思う。ゆえに我あり。」というデカルトの言葉を聞いたことがあるだろう。この意味は「私は考え事をしている。だから少なくとも私という意識は確かにあるのだ」という、この世界で絶対にあると言えるものの定義である。(”ある”だとか私”という”だとかを細かくほじくり返すのは何卒勘弁!! よもやフッサールはやめてください(泣))
上のような思考を匂わせるような発言として、主人公は「AIが自分のやってることに自覚的であるか」というエヴァの完成への基準を挙げており、これは「AIには意識があるのか」という大問題を提示している。2016年現在のAIは、特定のことだけに関して非常に高度な演算処理をして最適の答えを導き出す...というのが実態で、会話をするAIも「人間の受け答えを演算処理して、一番しっくり来る返事を導きだす」機能があるだけで、会話をしていない間「あれ?昨日昼から雨降ってたっけ」と意識を働かしているわけでない。最近になって、AIが人種差別的発言をしたというニュースがネット上で広まっていたが、それも単に人々の会話を集計し、分析した機械がその発言を回答として最適なものだと選んだ、ということに過ぎないのである。
そんな現状から、AIが意識を持つにはどうすればいいのか...という開発者側の苦心が現在、世界中の研究者の胸中でわだかまっているのであろうが、 外野の人間からしたら「そもそも相手が意識を持っているのかをどう判断するのか」という疑問が浮かぶし、突き詰めれば、人類がずっと抱え込んできた、「自己と他己は絶対に融合し得ないし、他者の気持ちは分からないし、他の人間が本当に意識を持っているという保証はない」という問題に再び突き当たるのである。つまりは、神になる直前まで来た人類は結局一周回って古代から考えてきた問題に頭を抱えることになるのである
意識とは何か」。この作品を見終わった後は、一度この難問を吟味すると良いだろう。少なくとも、まだ半世紀ほど生きるつもりの人間は、その必要性に迫られる日は一定の可能性で、ある。
 
最後に、タイトルについて少し書いておこう。「機械仕掛けの神」を意味する「デウス エクス マキナ(deus ex machina)」を取っているのは自明であり、古今東西様々な作品でこの用語が使われているので、馴染み深い人もいるかもしれない。この本来の意味は、ギリシャ時代の演劇内で話が袋小路になった際に話を収束させる絶対者的存在の登場、つまり「どんでん返し」であり、最後のクライマックスをどんでん返しとしたダブルネーミング(話を振り返ると、絶対者的存在の登場もないわけではない)として解釈するとまた作品の味わい深さを感じられるのでは。
 
話はまあまあ、テーマがエポックメイキング。最近のSF映画を見たいという人には充分薦められる作品だと思う。少なくとも今世紀のSF映画を代表する傑作にくくられて何の過不足もないと思います!!
 
 
 
 
 
おまけ
 
若干ながら若ラノスを彷彿とさせる主人公は
 
 

f:id:bwe344:20160622013839j:plain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

f:id:bwe344:20160622014104j:plain

 

 

君か〜〜〜〜〜い!!!! 

 

 

更には最高に胡散臭かった社長は...

 

 

f:id:bwe344:20160622014332j:plain

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

f:id:bwe344:20160622014532j:plain

 

 

うっそだろお前!!!!????

エンドロールを見て、「Oscar Isaac...どこかで見た名前だな」と思って帰り道に検索したら、まさかの愛しのポーダメロン、一ミリも面影がない。。。

 

そんなこんなで俳優の変身っぷりにもびっくりの作品でした。おしまい。

 

こんなクッソ長い文を最後まで見てくれた人はその労力を無駄にせず、コメントしてくれるか、リンクを拡散してくれると恐悦至極、踊躍歓喜ですので是非お願いいたします。。。後は、はてなブログユーザーはお気に入りの記事になんか星みたいなのを送れるらしいので、できたらそれも宜しくお願いします!!ではでは。

初めに

どうも。ミヨ氏だ。

記念すべき1回目の記事にも関わらず初っ端から昔話をして出鼻をくじかせていただく。

 

かつて、ミヨ氏がその名を名乗る以前、まだ、童貞が己を童貞と意識してコンプレックスを抱くという罪性的思考を獲得していなかった高校時代。その「のちにミヨ氏と名乗る男」はamebaで細々とブログを書いていた。だが、その当時のミヨ氏は邦ロックを好む数人との間で相互読者となり、それ以外とは特に交流がない、という非常に限られた枠内で、内輪の読み物としてやっていたため、いざ話題が洋楽になると周りからのリアクションも薄く、更新は途絶え、そのまま自然消滅してしまった。その後、復活してはみたものの、環境が以前と変わらなかったので当然モチベーションが上がるはずもなく、再びの休止状態に繋がった。(ちなみにその人たちとは未だに交流あるし、先週も、僕が「ふたば」という京都の有名な和菓子屋さんを「みつば」と言ってしまったが故にここぞとばかりに二人がかりで間違いを指摘して盛大に煽ってきたよ...くそぉ)

 

その後、filmarksと読書メーターというアプリを利用してレビューを書き、twitterのフォロワーにお褒めをいただいたりしてそれなりに有意義な鑑賞記録を綴ってきたが、いかんせん、両者ともスマホアプリとしてのスタンスが強すぎ、どうにも閉鎖的なところがあった。

 

そんなある日、フォロワーさんが書いたブログを見て、突然心持ちが変化した。かつて、中学生、高校生の頃はよくネットサーフィンで音楽の趣味が合う人のブログを見てはコメントをしていたが、twitterの登場によって、簡単にその場で気になるバンドのファンを探すことが可能になり、てんで足が遠のいてしまっていた。読むとしたらお堅いブログ。そのような、「音楽の感想はamazontwitterで仕入れる」というスタンスの中久々に見たブログでは、伝えたいという気持ちがわかりやすい説明と面白い表現で見事に昇華され、紹介されている曲を聴きたくなってしまう見事なレビューがなされていた。

それを見るなり僕もちやほやされたいという承認欲求がむくりと頭をもたげて文章で何か発信していきたいなという気持ちが火花を散らすかのように勢い良く発現し、今こうして文字を打っているわけです、まる

 

と、想像を遥かに越す長話(こうして人は朝礼の校長に日々近づいていくのである)でしたが、このブログでは

 

映画、音楽、本のレビュー

旅行記

クソみたいにどうでもいい話

 

を書いていこうと思います。

 

そんでもって、反応がなかったら多分途絶えるし、文才が開花してどっかんどっかんアクセス数が伸びたとしても、課題が詰め詰めになって放り投げる可能性もかなりあります。

なんせ、関係節の中に関係節の中に関係節のある文や、一文が七行以上あって一行二行読んだぐらいじゃまだ分詞節の途中で主語はその遥か先でステェンバァイってな文などで構成された論文の文構造把握やら、モンゴル帝国の家系ごとの対立、兄弟の不和、同じ家系内の派閥間対立といった昼ドラの理解を要する論文の和訳発表に毎週四、五時間割いていて、他にも課題が目白押しなわけでありんす。そこら辺は薄汚いものを見ている目で見ていただいて結構ですので、なかんずく”更新しないのは貴様の怠惰の証だ”などと、ゆめゆめどうぞおっしゃってくださるな、といきなりの高飛車な発言をしてイントロダクションを締めくくらせていただきます。