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直截の時間(募集中)

気ままに書きます。勉学(課題の超過)によって停滞する可能性あり、タイトルは募集中だし良いのがあれば変える。

そのあるがままを写すーラサへの歩き方(2015 中)におけるフィクションの形

どうも自分はメタだとか、モキュメンタリーだとか、「既成概念の向こう側」、つまりは観客席というぬるま湯に浸かった我々の立場を脅かすものに目がないようだが、この作品では、今まで見てきたメタな視座が入ることを醍醐味としたフィクションとは違う旨味があるフィクションを体感することができた。

 

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というのも、人物関係やラストのちょっとしたハプニングこそフィクションだが、実際にチベットに住む村人をスカウトして、普段の自分たちの「演技」をさせているという、限りなくノンフィクションなフィクションを実現しているのである。

奇を衒った演出もなく、映画的なカットがない限り、ただのドキュメンタリーとも思ってしまう二時間のロードムービー。その絵を撮るために、巡礼ロケまでに数カ月村に滞在して出演者との信頼関係を築き、あまりにも「素」な彼らを引き出しているのだ。

物語性の薄い作品を作り出すためにここまで腐心して、評価される(パンフレットによると中国国内では結構評価されてるようです)ということはつまり、チベットの生活は装飾する必要もなくその日常風景に映像価値があるというわけで、簡単に言えば、記事の題名の通り「あるがままを写す」ところに作品の真髄がある。

 

家畜を捌き、毛皮を作り、家を建て、自給自足の中で生きる彼ら。

巡礼中で落石で怪我し、愚痴る人間に「お前は偉いよ。それじゃあ祈ろう。」と淡々と褒め、お経を唱え出すやりとり。

怪我をしたら休み、一人が産気づいたら先に車で病院に行き(途中で出産する前提で出演を決めたらしい!!)、後から追いついた他の一行は赤ん坊を見てにっこり、道行く人にはお茶を勧め、勧められ、そんな穏やかな人々の営みの後ろには、高山気候独特の、岩肌が剥き出しな山々がそびえ立ち、劇中でも何度も吹雪に見舞われたように、殺伐とした自然がある。

 

彼らの生き方を見て、日々何かに追われるようにして生きている我々は自分のあり方を見直すべきだと唱えるのは安易だが、依然として「そのまま」が商業作品になる生活風景の中に見出せる「信仰と安寧」は我々の世界には見出せないものであるのは確かだ。信仰心を自然体で持つこと。これが結局のところ一番の幸福なのかもなぁ。

 

P.S. 道中で石を積んではそのまま出発する描写が何回も出てきて気になっていたので調べたのですが、神を祀る石塚で、オボーと呼ぶようです。

Wikipediaにもあったので、この作品を見て気になってた人、これから見る人は検索してみてはいかがでしょうか。自分だけが不勉強なのかもしれないけど。

 

youtu.be

 

予告編。思ってたより五体投地は大変でした。