直截の時間(募集中)

気ままに書きます。勉学(課題の超過)によって停滞する可能性あり、タイトルは募集中だし良いのがあれば変える。

POVについて語った何か

この記事はレポート用に書いた文章をごにょごにょしたものです。至らない点や知識不足の点、特に「神の視点」に踏み込まなかったところなど突っ込みどころは多々ありますが、これが何かの一助になれば幸いです。ちなみに僕はPOV全然見てません。よくレポートに出来たな。

 

 21世紀に入った頃を境にして、映画の撮影手法でPOV方式というものを用いた作品が増加している。Point Of View shotの略称である POVとは、一人称視点で撮られた映像のことを指し、基本的には全編を通して主人公の視界で物語は進行する。その視界が一人称である理由は、ただ演出上の都合であって物語の内部では存在しない場合や、主人公がカメラで撮影中にある一連の出来事をフィルムに納めていたとしっかり設定が考えられている場合と、それぞれ異なっており、必ずしも定まっていない。そもそもPOV方式の映画の起源は、1947 年に公開されたミステリー映画である『湖中の女』と言われている。当時はあまりにも前衛的な演出で配給元が渋面を示しただけあって、後発映画が作られたり、後年高い評価が与えられた訳ではない。
 

 

これが元祖POVかもしれない湖中の女。近所のTSU◯AYAにないしなかなか手が出ない

 

 それでは何故21世紀にいたってPOV方式の映画が生まれたのか。理由は多々に想定されえる。撮影側としては一人の人間の視野から見える限られた景色のみを作ればいいので予算を抑えられる手法であること、カメラの発達(例を挙げると当初はサーファーが波に乗っている映像を撮ることを想定して激しい動きに耐えられるように作られたGo Proなど)によって一人称視点での撮影が容易になったこと、など表面的な要素が大きく絡んでいるのは否めないであろう。主にPOV方式を用いる映画は、インディーズ市場の大きいジャンルであるホラーや怪物によるパニック作品に多く見られるが、POV方式で撮ることで一人の人間の視界に入らないところまでの装飾や映像加工は省かれることは低予算を強いられるインディーズ業界には大いに歓迎されるであろう。ハリウッドの巨大資本によってCGによって生み出されたモンスターの大群ではなく、特殊メイクのゾンビ数人だけで無数の敵に主人公が襲われているという演出が成立するのはPOV方式の強みとも言える。 ただし、上述の理由だけでは何故1947年には渋られた演出の作品が21世紀を迎えて量産されるようになったのか説明することはできない。観客側の価値観がこの半世紀の間に変化したと思われる。

 

 

低予算で有名なホラー映画パラノーマルアクティヴィティ。確かにセットに必要なものはほとんどない。


 一つの明確な文化現象として想定されえるのが「ゲーム」文化である。80年代~90年代 を境にTVゲームという遊びが急速に子供の間に普及し、今では若者だけでなく一定の中年層までを包括する文化現象となっている。そこで重要なのが「FPS」というゲーム用語である。First Person Shootingの略称であり、要するに射撃ゲームにおけるPOVという意味であるが、今まで一人称視点という映像方式が普及していなかった状況において、一人称の視界内で移動して行動することが求められるゲームが量産されたという事実は軽視できであろう。21 世紀のPOV方式の映画が『湖中の女』の正統な系譜に当てはまらず、ホラー・ パニックという単純で物語性のないジャンルに流れていった理由としても、POV方式に違和感を抱かない人々が、シューティングゲームという意味性の少ない娯楽形態に慣れ親しんできたからという説明をなすことも無理はないものと思われる。昨年発表された『ハードコア』というPOV方式のアクション映画はまさにその真骨頂であり、謎の改造を施された記憶喪失の人間が追っ手を打ち払いつつ真実に至るという物語はあまりにも陳腐であるが、一人称視点で行わる銃撃戦や何度も蘇生する仲間や一定期間ごとに交換しなければ停止する人工心臓など、更には主人公は声が出せない分、主人公のイメージが固定化されておらず、観客が主人公に移入しやすくなっている(主人公の名前が入力式で、主人公の名 前を呼ぶセリフだけ声優の声が入っていないという手法はゲーム全般に見られる)という ゲーム的文脈に沿って作られた設定は、ゲームによって培われた、人々の一人称視点の映像メディアへの理解を、映画側がゲームに還元したという意味合いから見て非常に意義のあるものであり、21 世紀的価値観を強く表わした作品と言えよう。

  

家庭ゲーム機でのFPSの普及は、皮肉にも三人称視点のド派手な映画シリーズである007のゴールデンアイ64版が大きく貢献している。動画、もはや本題と関係なし!! 幼少期に数百時間やったことある抱腹絶倒の超名作なのでみんなもやろう!!(ただし四人対戦できる友達を前提とする)

 

 

 

 邦題『ハードコア』で今春公開されたゲーム脳映画。文字通り血肉湧き踊るバイオレンスなアクションが繰り広げられる21世紀らしさを感じる傑作。

 

 更に考えられる変化であるのが、「リアリティー嗜好」の顕在化である。先述したように、POV方式の映画はホラーやパニックに多いが、それと重複してドキュメンタリー方式で撮られた、モキュメンタリーというジャンルに位置づけられるものが多い。当然ながら一人称視点だけで話が進行するにはそれなりの説得力を持たなければならない。特に市販のハンドカメラだけで撮られたような作品では何故撮影されたのかという理由すら求められる。その回答として最も簡単なものが「ドキュメンタリーを想定して撮られたという設定」である。特に一般人や地方のローカル番組がオカルトな現象を求めてカメラを片手に辺鄙な山中に向かうというのは低予算で成り立つ最もありうる設定である。以上の文脈から作品が制作されるとき、作品にはリアルさのみが求められ、三人称視点からの語り手は失われる。必ずしも世界観の説明は必要なく、一人の人間の視界から見える現実世界があるがままに映されていれば問題はない(例として、ハリウッド作品であるが、怪獣に襲われて逃げ惑うだけの一般人の視点にフォーカスした『クローバーフィールド』が挙げられる)。この現象はインディー作品やPOV方式の映画に限定された現象ではない。「神の視点」からの鳥瞰的視点を重要とする『007』シリーズや近年のアメコミ作品(『ダークナイト』が好例であろう)といった娯楽作品でもリアリティー路線とミクロな視点へのシフトは強まってい る。ダニエルクレイグへと配役が変更されて以降、『007』では初めての殺人の葛藤や007が所属するスパイ組織M16内部の内紛など、決して今までは描かれることのなかったリアルな設定の増加や世界観の縮小が進行している。また『ダークナイト』では主人公であるバットマンが私刑ヒーローである設定を重視して、既存の善悪二元論的なアメリカのヒー ロー像を解体することに物語の重点が置かれた。

  

 

JJエイブラムスが製作総指揮をとった本作は、ゴジラが元ネタであり、それとは無関係であろうが、去年のシンゴジラの批評には必ずと言っていいほどこの作品が引き合いに出されていた。内容は全く真逆だが、ある意味相互補完的な役割を果たしているとも言える。

 

 冷戦の終結における「共産主義」という万人の敵が失われたこと、インターネットや SNSの発達によってマイノリティーの発言権が強まり、「マジョリティーの価値観」という概念の消滅したこと、また同じくインターネットでTVなどの既存のメディアの正誤を吟味する手段がより簡単に手に入り、善悪を安易に判断しないようになったことなど様々な要素が挙げられるが、いずれにしても社会や文化がより多様化したことによって明快な主義や思想の介入するメディア作品が受け付けられなくなっている現状を示している点には一致している。そこにおいてPOV方式の作品は、明確な敵もなく、あるのはリアリティー溢れる画面であり、一人称視点であることで第三者によるバイアスがなくなり、より純化した素材を提示することになる。まさに21世紀という時代背景によってその存在意義を強く表わす映画形式として位置づけられると言えるだろう。