直截の時間(募集中)

気ままに書きます。勉学(課題の超過)によって停滞する可能性あり、タイトルは募集中だし良いのがあれば変える。

Magmaを観て-本能と理性の超克-

ここ数日、学生最後の夏休みを有意義に使うために、将来趣味として触れていくつもりである西洋近代〜現代思想の読解の下地として、丸山圭三郎の『ソシュールを読む』を読んでいた。

彼の思想を知っている人なら言うまでもないことであるが、曰く、何かを指す記号の「シニフィアン」とその対象の「シニフィエ」の繋がりに必然性はなく、言うならば、そこらへんの人間が飼っている、四つ足で「ワン」と鳴く生き物を「凧」と読んでも何も不都合はない。しかし、「歴史」という時間的蓄積により、一個人がイヌを「凧」と呼ぶことは可能でも、社会全体で「シニフィアン」と「シニフィエ」の紐帯を突如再構築することは実質不可能なのである。

丸山はソシュールが生前断片的に示していた方向性を酌み、一個人では変えられない記号と対象の関係性に絶望するのではなく、詩作などの少しずつでも繋がりにズレをもたらしていくことに面白みを見いだすことことを促し、本書は完結した。

 

なんのことはない、Magmaを聞けばいいのだ。

 

さて本題。

 

会場は梅田はサンケイホールブリーゼ。個人的にはAsia以来の会場である。

しかし妙なことだ。デビュー作がいきなり全米チャート1位に躍り出た、80年代のノスタルジーに満ちたポップバンドと、「コバイヤ語」なる他の惑星で使われる言語を用い、30分以上に渡る複雑極まる楽曲でシャーマニズムの如くのパフォーマンスを見せるカルトバンドが同じ会場なのだ!

会場ではグッズ売り場が大盛況であった。バンドのシンボルマークがでかでかとプリントされたTシャツは「俺は世間的に観たらキモチワルくて頭のおかしいバンドを聞いている」ということを仲間内で伝えるには申し分ない出来であったから当然だろう。仲間内でのみ伝わる暗号を持つことほど、我々逸脱者には嬉しい瞬間はない。金欠で買わなかったけど。

 

ほぼ満員の会場では、他のバンドの客入れとは異なってアンビエントなSEが流れ、さながら近年のKing Crimsonの来日のような独特な緊張感を纏っていた。なんたっていつも見るような、シワシワのご老人が若かりし頃の栄光を楽器を通して語る集会ではなく、現役バリバリの宗教団体のイベントである。曲間の沈黙もいつも以上に重々しく、起きる出来事を見逃していけないという使命感が客席中からステージに集中砲火の雨嵐であった。

客電が落ちて出てきたバンドは、来たる30分を越す演奏のための態勢を整えるためか、物言わずしばしの間を取る。

 

真ん中に立った小太りの壮年の男性が一言「ハマタイッ!」と叫ぶと、観客席では興奮の声が渦巻いた。

おっさんが意味不明な言葉を一言発するだけで、おっさん集団が絶叫する、あまりにも気色悪い光景である。

まさしくここではそれぞれが所属する社会でのシニフィアン/シニフィエの関係性がぶっ壊れ、意味なき言葉が発せられ続け、それがこの閉鎖された社会では受容されているのである。

無論、コバイヤ語が完全に所属社会の束縛を免れているわけではなく、フランスで生を受けたクリスチャン・ヴァンデが受容してきた言語的特徴をいくらか帯びており、発音であったり音節であったり、ラテン語派生の言語を変節したようなフレーズに依っているのは間違いない。つまり、シニフィアンシニフィエの大胆な再構築なようでいて、フォーマットは元ネタがあるのだ。また、対象に関しても楽曲全体の意味合いについては我々の理解可能な言語で語られており、楽曲全体のコバイヤ語の歌詞を1つの単語として考えると、一応対応関係はある。

とはいえ、厳密に分析しなくても、Magmaのライブという場が、常識と重なりつつも大いに逸脱した空間であることは誰でも自明の理であろう。

 

むしろ自分がMagmaを直に見て感じたことは、記事の副題にある「本能」と「理性」のせめぎ合いに主にある。

70歳を越しているとは到底思えないヴァンデのドラミングの野生性(彼のシンバル捌きほど「ぶっ叩く」という動詞が適切なものはない)と、時にはつんのめるかのように正確にリズムや変拍子、強弱をキープする冷徹なテクニックとの共存は、バンドそのものにもそのまま演繹できるフラクタル構造である。

30分、1時間、20分という3曲だけで1公演を終わらせる、まるでクラシックのコンサートのような曲目であったが、そこにおいて彼らは楽譜を用意することはなく、とにかく肉体をスコアの代替品として用いていた。「暗記」といえばそれまでだが、プログレ畑での随一の曲の尺と楽曲の複雑さを誇る彼らの曲を演奏するにあたっては「ノリ」といった肉体的な能力には頼れない。怒涛の勢いで襲いかかる拍子の転換に高速なリフレイン、ロックでは御法度の変速行為など、全てが思考停止状態の演奏を妨げており、どれだけ曲が盛り上がりに達しても何かしらの理性の介入が求められる。

曲に関しても、「De Futura」はやや例外的であるが、ボレロ形式で徐々にヒートアップするような単純明快な構成ではなく、断片的なモチーフが矢継ぎ早に提示されていくうちにボルテージが上がり、最終的には暴力な音とビートの洪水に突入するのである。

 

これらに一貫してあるのは、「理性」と「本能」の衝突である。

バタイユ曰く、理性を持った人類は、どうしても抗えない「性」と「死」という暴力をタブーという枠に押し込めて封印し、理性でもってその禁を犯すことで暴力を超克しようとしている、とのことだが、これぞMagmaがなしていることではないか!

「性」や「死」とはやや異なるが、セックスと親和性の高い音楽を非常に複雑怪奇な手段で演奏し、死者を蘇らせるイタコ芸よろしくトランス状態に至らせて挙句には未知なる言語で語る。そこに興奮する我々は「理性」が「暴力」をこじ開ける瞬間を目の当たりにしているのだ。

 

ケレン味」という「笑い」でその外面を粉飾こそしているが、いや、むしろ「笑い」というこの世界のズレを体現する形式がその証左に他ならないが、彼らのやっていることは人類の本質の表明と、その可能性である「暴力への勝利」を提示する救世主的行いなのである。なんとも仰々しい結論であるが、そうでなければ半世紀以上狂気じみた顔をしてドラムを叩き続けるヴァンデ氏の原動力が説明できないだろう。狂ったふりをして生き抜けるほど世界は狂気に寛容ではない。本当に「狂う」ことができるからこそのあの生き様であり、このライブなのだ。