直截の時間(募集中)

気ままに書きます。勉学(課題の超過)によって停滞する可能性あり、タイトルは募集中だし良いのがあれば変える。

ボウイの没アルバム四選

アルバムのリイシューや発掘音源などにより、デヴィッド・ボウイの膨大な作品群のアーカイブ化は日々進行状態にある。しかしながら、◯周年記念盤が出されなかったオリジナルアルバムのリマスターや有名ブートの公式化などの優先事項の高い作業が先に行われているため、本当のお宝音源がいつ発売されるかは依然として不明である。

回顧展『David Bowie Is』にコカイン吸入用のスプーンまで提供したボウイの物持ちの良さに鑑みると、没の理由を出来の悪さに帰しえないようなレベルの未発表曲であれば、最高の保存状態で日の目を浴びる時を待ち続けているということは充分にあり得る。

その可能性を示す音源として、今回は没音源の中でもアルバム単位で葬り去られているものを4つ紹介したいと思う。音源が一切出ていないものから数十時間に渡る音源の一部分を切り抜かれただけのもの、そしてボウイの執着心によって大部分を断片的に公式化してしまったものと、その音源を取り巻く環境は十色であるが、いずれにしてもボウイがその作品に自信を持っていたであろうことは容易に窺い知れる。

今後これらや更なる没音源が公式化され、彼のワーカホリックぶりとその仕事の水準の高さに新たな評価が付されることを願っている。

 

 

1. Ernie Johnson(1968年)

日本語の情報はほとんど出回っていないマイナー中のマイナーなアルバムであるが、それはそうである。初期のマネージャー、ケネス・ピットの証言および1996年にオークションに出品されながらも落札されなかったデモテープだけが手がかりなのだから。

つまり、どのような音かを知るすべは一切ない。

現在分かっているのは、1)アルバムタイトルの名の主人公が自殺を図る一連の流れを語った35分のロックオペラであるということ、2)絵コンテの様なものも用意され、映画を想定したミックスメディア作品であったということ、3)4トラックによるオーヴァーダブをふんだんに活かした完成度の高いデモテープであったということ、この3点である。

何故この作品が没になったのか、その疑問に関してははっきりしたことは分からないが、67年のデビューアルバムが不振に終わり、レーベルとも契約が切れた状態にあった無名のミュージシャンがこの様な癖の強いアルバム(しかも映画化前提)を作成したところで、受け入れてくれる契約先を見つけるということは困難であったであろうことが考えられる。

このアルバムを聞いたと証言した人がケネス・ピットしかいないため、存在が怪しまれる点は否めない。とはいえ、デビューアルバム以降、1980年までの間でオリジナルアルバムが出なかった年は、この1968年とワールドツアーに勤しんだ1978年だけなので、未だどこかに転がっている可能性は充分にある。尤も、ボウイのお宝音源のほとんどが「空港に忘れた」「たまたま箱から出てきた」などという偶然に頼っていているため、今後新たなテープが見つかる可能性は限りなく低いかもしれないが...

 

2. The Gouster(1975年)

 『Ernie Johnson』とは打って変わってこちらはちゃんと音源も公式で全部発表されたアルバム。というか、代表作の1つ『Young Americans』のプロトタイプである。『Young Americans』と何が違うかと言うと、ジョン・レノンとのセッションが含まれていない分をボウイのオリジナル曲で埋めているのである。

ジョン・レノンとのセッションで録音されたのはビートルズのカバー「Across The Universe」と「Fame」の2曲で、後者は厳密にはザ・フレアズのカバー「Foot Stomping」で、アレンジに苦戦していたところをジョンとの即興的なセッションで完成させてしまったという、人のふんどしで相撲なナンバーである。

一方の『The Gouster』は全曲ボウイのオリジナルで占められており、純度100%のボウイ的ソウルミュージックを聞くことができる。その中でも「John, I'm Only Dancing (Again)」はジギー時代にシングルとして発売された楽曲の再編曲バージョンであり、ソウル色にガラリとお色直しを果たした上に、次作『Station To Station』の「Stay」に類似したメロディーラインが入っており、習作として、あるいは程よく使い回されたということが分かる。

全体としては『Young Americans』よりもメロウな傾向にあり、ロック畑のリスナーとしてはレノンというロック側の人間が入っている方が聞きやすいという印象は否めない。しかし、いきなりジャンルを変えたという衝撃度としては『The Gouster』の方に軍配が上がる。

晩年に開始したボックスセットのリリースの第二弾、『Who Can I Be Now? (1974 - 1976)』で日の目を浴びている。

 

 

3. The Leon Suite(1994年)

そもそもにこのアルバムのタイトルは正式であり、曲目も正しい割り振り(20分超の3曲!)であるのか、その判別が一切不明な謎に包まれた音源である。しかし、あまりにもアヴァンギャルドな作風は、一端のファンがフェイクで作り出せるような曲想ではなく、正真正銘ボウイの音源であるという証左となっている。

実験的な音楽性に賛否が分かれた1995年の『1.Outside』発売に先立つ前年、モントルーで録音されたイーノとのセッションの一部がその音源の出典であるが、いざ聞くと全体の2割程度は『1.Outside』に「Segue」と題され収録された一連の楽曲の元となっており、アルバムのより前衛的な側面としてこのセッション音源が利用されていたということが分かる。

しかしこの音源のほとんどが公式ではまだ世に出ていない初出音源であり、これが凄まじい。 改めてニューヨークで聞きやすい楽曲を追加収録した『1.Outside』ですら世間には難色を示されたのだが、その原石ときたら、常に背後で響く不穏なシンセサイザーに、リード楽器であることを放棄した飛び道具的扱いのギターとピアノ、インダストリアルな呪術性を獲得したドラム、そして殆ど歌うという意志を見せないボーカルというとんでもない曲者だ。

ボウイはある時は下品に絡みついたり煙に巻くようなおどけたナレーションとして語り、ある時は扇動家として歓声に対して呼びかけ、挙句にはラップのように歌詞を高速でたたみ掛けてくる。

ロックという文脈において、「現代音楽」とはシェーンベルクブーレーズなどのような不協和音を迎え入れたフランス勢力ではなく、スティーヴ・ライヒフィリップ・グラスなどのアメリカのミニマル・ミュージックのことを指すが、このボウイの音源に関しては間違いなく前者の系譜の音楽である。

何よりも恐ろしいのは、このセッションの音源は3時間分のバージョンが用意されていたとかいう話で、没になった音源も含めると数十時間に渡るようである。

ボウイ自身も、一度お蔵入りになった『2.Inside』制作に向けてイーノと話し合っていたらしいし、当時のギタリストのリーヴス・ガブレルズもブートの存在を知った上で更なる音源を世に出すことには前向きであり、今後お宝音源としてボックスセットの一部で出る可能性は高い。

 

 

4. Toy(2000年)

下手をするとボウイという枠を越して、音楽界でトップクラスに話題となったリークアルバムである。自身の無名時代の曲のセルフカバーと次作『Heathen』に収録される新曲とを含んだ本作は、2000年のグラストンベリー出演時のやる気の空回りを起点としている。ライブに向けてのスタジオ入り後、そういえばと運営に演奏時間の上限を問い合わせたところ、予想を遥かに下回る時間であったためにしょぼくれながらリハーサル済みの曲を削った彼は、行き場のないやる気を晴らすためにアルバムのためのスタジオ入りを決める。

グラストに向けて1970年当時の格好を再現して10年ぶりにライブでヒット曲を全面的に取り上げたという事件からの制作で、来るオリジナルアルバムが回帰的な内容になることはある程度必然だったと言えよう。

ただ、レーベルはアルバムが完成した後に首を縦に振ることを拒絶した。グラストンベリーの曲目事件についての挫折に珍しく怒った彼は、レーベルを移籍し、一部楽曲を『Heathen』に、残りをシングルのB面などに流用した。

その後の10年間の沈黙期の終盤、2011年に突然全音源がネット上に流れ、完全に隠遁状態のボウイに正真正銘の新譜を諦めていたファンたちは複雑な思いでアルバムを聞いていたが、2013年の復活劇によってその鬱憤は晴れ、2014年のベスト『Nothing Has Changed』での更なる一部楽曲の公式化によってほとんどの曲が正式に発表された。

とはいえ、一部は以前リーク音源でしか聞けないため、いずれフルで公式化してもらいたい。この1つ前のアルバム『'Hours...'』が過去最低のセールスとも言われ、一方でグラストンベリーで世間の注目を俄かに浴びたタイミングでのニッチなコンセプトは相性が悪かったとしかいえない。出来は文句なしであるだけに。

 

以上がアルバム毎宙に浮いてしまった未発表音源の4選である。

存在が絶望的な『Low』に先立つ『地球に落ちて来た男』のサントラや『Tonight』の没曲はともかく、『The Next Day』や『Blackstar』もどうにもまだ発表されていない曲があるようで、丁寧な発掘作業が行われることを切に願う。